「プロローグ」
「演出軍の一員として寄居北条祭りに出てみませんか?」との募集を知ったのは、関ヶ原合戦400年祭参加者の会「関東侍所」の掲示板でした.。「演出軍として参加してみたい」とは思ったものの、武道の心得もないそれがしには無理か?と諦めかけていた所、「現代野試合連盟」会長の仁民慶殿から、「安全かつリアルに楽しめる野試合形式ならいかが?」とのお誘いがあり今回の参加を決意しました。本当の事を言うと合戦が始まる前までは演出軍として勤まるかどうか不安でしょうがなかったのですが・・・・・。どうなる事やら。 |
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・寄居北条祭りの前日の4/7「野試合訓練&リハーサル」があるという事で寄居に向かう。
「合戦祭り祭り参加を通して歴史を学ぶ」という事をひとつのテーマにしているそれがしは鉢形城跡を探索するために集合時間(13:30)より早めに行こうと寄居に向かう。既に興奮していてアクセルを踏む足に力が入っていたのか、ただ単に道が空いていたせいかは忘れましたが、かなり早い時間(10:00)には鉢形城跡に到着しました。 |
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| ・本丸跡からかなり離れた神社の前に車を停め、(公園整備中なので駐車場が無かった)探索開始。いきなり←のシュールな看板が目に止まる。説明文によると、「寄居カルタ」と呼ばれ、鉢形城にまつわる伝説や場所をテーマにして作られたそうです。城跡探索路の沿いに立てられていますが発掘調査中の個所の看板は撤去されており全部を見る事は出来ませんでした。 |
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・鉢形城の史跡保存の為、発掘作業と公園整備が行われていました。もともと宅地や農地であった所を退去させ、史跡全域にわたって整備するという大掛かりな工事です。
それがしが行った時は、既に家や林も撤去されていたので、土塁や空掘などの遺構が良く観察でき「土塁マニア必見」の状態でした。
城の防御力を体で知ろう!と、言う事で発掘作業者の目を盗み、土塁を上ったり降りたりしてみました。やっぱ、外敵からの防御を目的としている事だけありけっこう登るのはきつかったと、いうか危険(笑)
これから、発掘調査の結果に基づき建物の復元なども行われるそうです。 |
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・暖かな春の日差しの中、道沿いの桜を眺めつつ歩く事10分最後にすこしだけ急な上り坂はあるが大した苦労も無しに本丸跡にたどり着く。本丸跡には土塁らしき物が残るのみで石垣などの遺構は無く、城の存在の証を今に伝えるものは石碑のみであった。
既に始まっていた祭り準備の作業(陣幕設置など)を眺めつつ本丸が有った頃を想像してみる。 |
・ここで「寄居北条祭り」の由来を・・・。
話は豊臣秀吉の「小田原討伐」の頃に遡ります。
天正18年(1590年)碓井峠を越えて上州(群馬県)に乱入した北国軍は前田利家、利長父子、上杉景勝、真田昌幸、毛利秀頼、小笠原信嶺、松平(依田)康国、康勝兄弟ら、3万5千。怒涛の勢いで上州を攻略し、ついに武蔵国(埼玉県)に侵入。同年5月19日、岩槻、八王子と共に北条3大支城の一つである鉢形城を取り囲む。城に篭るのは北条氏邦、以下320騎、歩卒2千3百人あまり・・。攻防1ヶ月あまり豊臣方の新たな加勢するに及びもはやこれまでと、6月19日北条氏邦は遂に北国軍に下る決意をし、開城となった・・・。
この史実を後世に伝えると共に、攻防戦で命を落とした兵士達の慰霊の為にこの祭りがおこなわれる。と、言う事です。 |
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・本丸跡から荒川の流れを臨む。今回の攻防戦で、それがしは守備側の「北条軍」を希望したので、当時城を守っていた兵士達はどういう心境だったのだろうと、河原を北国軍3万5千人が埋め尽くし、城を囲まれている様を想像してみた。おそらく兵士達の胸中は、目の前の強大な兵力への恐怖と、それらを送り込んで来た城方にとっては理不尽な権力に対する怒りと、己の生命の存続に対する不安などが渦巻く複雑な心境だったのではと思う。
その複雑な心境を忘れぬよう胸に刻み鉢形城跡を後にした。 |
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