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>>> 後漢列伝 --献帝伏皇后紀--



獻帝伏皇后諱壽,琅邪東武人,[一]大司徒湛之八世孫也.父完,沈深有大度,襲爵不其侯,尚桓帝女陽安公主,[二]為侍中.

獻帝伏皇后諱は壽、琅邪東武の人にて、[一]大司徒湛の八世の孫なり。父完は、沈深にして大度有り、不其侯を襲爵し、桓帝の女陽安公主を尚り、[二]侍中と為る。

献帝の伏皇后は諱を寿といい、琅邪郡東武県の人で、[一]〔後漢の〕大司徒伏湛の八世の子孫である。父の伏完は冷静で思慮深く心の広い人で、〔先代から〕不其侯の爵位を受け継ぎ、桓帝の皇女陽安公主を娶って、[二]侍中となった。

[一] 東武,今密州諸城縣.

[一] 東武は、今の密州諸城県である。

[二] 陽安,縣,屬汝南郡,故城在今豫州朗山縣東北.

[二] 陽安は、県で、汝南郡に属し、故城は今の豫州朗山県の東北にある。


初平元年,從大駕西遷長安,后時入掖庭為貴人.興平二年,立為皇后,完遷執金吾.帝尋而東歸,李、郭汜等追敗乘輿於曹陽,帝乃潛夜度河走,[一]六宮皆歩行出營.[二]后手持縑數匹,董承使符節令孫徽以刃脅奪之,殺傍侍者,血濺后衣.[三]既至安邑,御服穿敝,唯以棗栗為糧.建安元年,拜完輔國將軍,儀比三司.完以政在曹操,自嫌尊戚,乃上印綬,拜中散大夫,尋遷屯騎校尉.十四年卒,子典嗣.

初平元年、大駕の長安へ西遷するに從ひ、后時に掖庭に入り貴人と為る。興平二年、立ちて皇后と為り、完は執金吾に遷る。帝尋りて東歸し、李、郭汜等は追いて曹陽にて乘輿を敗り、帝乃ち潛かに夜河を度りて走り、[一]六宮は皆歩行して營を出づ。[二]后手に縑數匹を持ちたるを、董承は符節令の孫徽をして刃を以て脅し之を奪ひて、傍らに侍る者を殺さしめ、血は后の衣に濺ぐ。[三]既に安邑に至り、御服は穿敝し、唯だ棗栗を以て糧と為すのみ。建安元年、完は輔國將軍を拜し、儀は三司に比す。完政の曹操に在ることを以て、自ら尊戚たるを嫌ひ、乃ち印綬を上り、中散大夫を拜し、尋いで屯騎校尉に遷る。十四年に卒し、子の典嗣ぐ。

初平元(190)年、献帝の長安への西遷に従い、伏氏はその時後宮へ入り貴人となった。興平2(195)年、皇后に立てられ、伏完は執金吾に昇進した。献帝が東の洛陽へ帰ろうとしたとき李・郭汜等は曹陽まで追って献帝を破り、献帝はそのまま夜間ひそかに黄河を渡って逃走し、[一]皇后や宮女等は皆歩いて軍営を出た。[二]皇后は絹の織物をいくらかもっていたが、董承は符節令の孫徽に刀で脅してこれを奪うよう命じ、孫徽が側仕えの者を殺したため、皇后の衣服は血にまみれた。[三]安邑に至った頃には、献帝の服は穴が開いてぼろぼろになり、食糧は棗や粟だけだった。建安元(196)年、伏完は輔国将軍を拝し、三公と同等の待遇を得た。伏完は政治の中心が曹操のもとにあって、自らが外戚の地位にあることを嫌い、印綬を返上して中散大夫を拝し、まもなく屯騎校尉へと遷った。建安14(209)年に没し、子の伏典が跡を継いだ。

[一] 度所在今陝州陝縣北.水經曰銅翁仲所沒處,是獻帝東遷潛度所.

[一] 渡河の場所は今の陝州陝県の北にある。水経によると銅翁仲の沈んだ所であり、ここで献帝が東遷に際して渡河した場所である。

[二] 周禮曰:「王后率六宮之人.」鄭玄注曰:「六宮之人,夫人以下,分居后之六宮者.」

[二] 周礼にいう。「王后は六宮の人を率いる。」鄭玄の注にいう。「六宮の人は、夫人以下で、后の六宮に分居する者である。」

[三] 濺音子見反.

[三] 濺の音は子見の反である。


自帝都許,守位而已,宿衛兵侍,莫非曹氏黨舊姻戚.議郎趙彦嘗為帝陳言時策,曹操惡而殺之.其餘内外,多見誅戮.操後以事入見殿中,帝不任其憤,因曰:「君若能相輔,則厚;不爾,幸垂恩相捨.」操失色,俛仰求出.舊儀,三公領兵朝見,令虎賁執刃挾之.操出,顧左右,汗流浹背,[一]自後不敢復朝請.董承女為貴人,操誅承而求貴人殺之.帝以貴人有妊,[二]累為請,不能得.后自是懷懼,乃與父完書,言曹操殘逼之状,令密圖之.完不敢發.至十九年,事乃露泄.操追大怒,遂逼帝廢后,假為策曰:「皇后壽,得由卑賤,登顯尊極,自處椒房,[三]二紀于茲.既無任、姒徽音之美,[四]又乏謹身養己之福,[五]而陰懷妒害,苞藏禍心,弗可以承天命,奉祖宗.今使御史大夫郗慮持節策詔,其上皇后璽綬,[六]退避中宮,遷于它館.嗚呼傷哉!自壽取之,未致于理,為幸多焉.」又以尚書令華歆為郗慮副,[七]勒兵入宮收后.閉戸藏壁中,歆就牽后出.時帝在外殿,引慮於坐.后被髮徒跣行泣過訣曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不知命在何時!」顧謂慮曰:「郗公,天下寧有是邪?」遂將后下暴室,以幽崩.所生二皇子,皆酖殺之.后在位二十年,兄弟及宗族死者百餘人,母盈等十九人徙涿郡.

帝許に都すと自も、位を守る而已にて、宿衛の兵侍は、曹氏の黨舊姻戚に非ざる莫し。議郎の趙彦嘗て帝に言を陳べて時に策を為し、曹操惡みて之を殺す。其の餘る内外、多く誅戮さる。操後に事を以て入りて殿中に見え、帝其の憤に任へず、因りて曰く「君若し能く相輔けば、則ち厚くせよ。不爾ずんば、幸ひに恩を垂れ相捨てよ」と。操色を失ひ、俛仰して出づことを求む。舊儀に、三公兵を領して朝見せば、虎賁をして刃を執りて之を挾ましむ。操出でて、左右を顧み、汗は背を流浹し、[一]自ら後に敢へて復た朝請せず。董承の女貴人と為る。操承を誅し貴人を求めて之を殺す。帝貴人の妊有るを以て、[二]累りに請を為すも、得ること能はず。后是に自りて懷懼し、乃ち父完の與に書して、曹操の殘逼の状を言ひ、密かに之を圖らしむ。完敢へて發せず。十九年に至り、事乃ち露泄す。操追ひて大いに怒り、遂に帝に逼り后を廢し、假に策を為して曰く「皇后壽は、卑賤由り、登顯尊極を得、自ら椒房に處すこと、[三]茲に于いて二紀なり。既に任、姒の徽音の美無く、[四]又身を謹み己を養ふの福乏しく、[五]而して陰かに妒害を懷き、禍心を苞藏し、以て天命を承け、祖宗を奉ずべからず。今御史大夫の郗慮をして節と策詔を持ちて、其れ皇后の璽綬を上り、[六]中宮を退避し、它館に遷さしむ。嗚呼傷ましきかな!壽自り之を取りて、未だ理に致さざるに、幸多きと為す」と。又尚書令の華歆を以て郗慮の副と為し、[七]兵を勒して宮に入り后を收む。戸を閉ぢ壁中に藏るるも、歆就ち牽きて后出づ。時に帝外殿に在り、慮を坐に引く。后髮を被り徒跣にて行泣きて過ぎ訣れて曰く「復た相活くること能はざるか」と。帝曰く「我も亦た何れの時まで命の在るかを知らず」と。顧りみて慮に謂ひて曰く「郗公、天下寧くんぞ是れ有らんか」と。遂に后を將ひて暴室に下し、以て幽崩す。生む所の二皇子、皆酖にて之を殺す。后位に在ること二十年にて、兄弟及び宗族の死者百餘人、母盈等十九人は涿郡に徙さる。

献帝は許に都を置いているといっても、帝位を守るだけで、宿衛の者に曹氏の旧知や姻戚でない者はいなかった。議郎の趙彦はかつて献帝に処世の術を進言したことがあったが、曹操はこれを憎んで殺した。その後も朝廷の内外で、多くの者が誅殺された。曹操が後に職務で殿中に入って献帝に謁見したとき、献帝はその憤りを抑えられず「もし君が私を補佐できるのなら、充分にやって欲しい。もしそうでないのなら、情けを掛けて退位させて欲しい。」と言ったため、曹操は色を失って、うつむいたり顔を上げたりして退出することを願った。古いしきたりによると、三公が兵を率いて帝に謁見するときは、虎賁に刀を執って身につけさせていた。曹操は退出すると、左右を顧みて、汗が流れて背中を濡らし、[一]これより後〔曹操は〕二度と進んで朝廷に顔を出さなかった。董承の娘が貴人となり、董承が誅殺されたとき、曹操はこの貴人の身柄を要求して殺そうとした。献帝は貴人が身ごもっていたため、[二]何度も助命を願ったが、助けられなかった。皇后はこの時から曹操に懼れを抱き、それから父の伏完に手紙を送り、曹操を殺害することを促す旨を伝え、密かにこれを計画した。伏完は敢えて事を起こそうとはしなかった。建安19(214)年になって〔曹操殺害の〕計画が明るみに出た。曹操は大いに怒って献帝に迫って皇后を廃し、詔書を偽造し「皇后の伏寿は、卑しい身分から、最も尊い位に登りつめ、〔皇后の御殿である〕椒房に居ること、[三]現在で24年に至っている。既に〔周の文王の母である〕太任、〔同じく武王の母〕太姒のような立派な教えの言葉はなく、[四]また身を慎んで修養する福は乏しく、[五]ねたみの感情を密かに抱いており、悪事の企みを包み隠し、天命に従って、祖先を祭ることができない。今御史大夫の郗慮に節と詔書を持たせて、皇后の印綬を返上し、[六]中宮より退いて、〔皇后を〕他の館に移動させる。ああ哀れなことだ。伏寿からこれを取り上げて、まだ裁判官に送り届けられないうちに、幸多からんことを」と言った。尚書令の華歆を郗慮の副使として、[七]兵を率いて後宮に入り皇后を捕らえた。〔皇后は〕戸を閉じて壁の中に隠れていたが、華歆はすぐに引きずり出して皇后は出てきた。その時献帝は外殿におり、座って郗慮と引見していた。皇后は髪を振り乱して裸足で歩きながら涙を流し〔献帝の前を〕通って別れを告げて「再び共に暮らすことができるでしょうか」と言った。献帝は「私もまたいつまで命があるか分からない」と言った。振り返って郗慮に向かって「郗公、どうしてこのようなことがあるのか」と言った。そのまま皇后は連れられて罪人を収容する部屋に下され、そして亡くなった。〔皇后が〕生んだ二人の皇子は、皆酖毒によって殺された。皇后は在位20年で、兄弟や親族の死者は百余人に上り、母の盈ら19人は涿郡に配流となった。(1)

[一] 浹,徹也,音子協反.

[一] 浹は、徹のことであり、音は子協の反である。

[二] 説文曰:「妊,孕也.」音仁蔭反.

[二] 説文にいう。「妊は、孕のことである。」音は仁蔭の反である。

[三] 漢官儀曰:「皇后稱椒房,取其蕃實之義也.」詩云:「椒聊之實,蕃衍盈升.」

[三] 漢官儀にいう。「皇后は椒房と呼び、その〔椒房の〕茂る実の意味を〔由来として〕取るのである。」詩にいう。「椒聊の実〔の持つ意味〕は、子孫が増えて升を満たすことである。」

[四] 大任,文王母.大姒,武王母.徽,美也.詩云:「大姒嗣徽音.」

[四] 大任は、文王の母である。大姒は、武王の母である。徽は、美である。詩にいう。「大姒が立派な教えの言葉を継承した。」

[五] 左傳曰:「人受天地之中而生,謂之命.能者養之以福,不能者敗以取禍.」

[五] 左伝にいう。「人は天地の中に生を受け、これを命と言う。有能な者は福でもって修練し、無能な者は禍を招くことによって〔身を〕壊す。」

[六] 蔡邕獨斷曰:「皇后赤綬玉璽.」續漢志曰:「乘輿黄赤綬,四綵黄赤縹紺,淳黄圭,綬長二丈九尺九寸,五百首.太皇太后、皇太后,其綬皆與乘輿同.」

[六] 蔡邕の独断にいう。「皇后は赤色の帯紐・玉璽を持つ。」続漢志にいう。「天子は黄色と赤の帯紐・黄色、赤、空色、紺の四色のあやぎぬ・明るい黄色の玉器で、帯紐の長さが二丈九尺九寸で、五百本あるものを持つ。太皇太后、皇太后は、その帯紐は皆天子と同じである。」

[七] 魏志曰:「華歆字子魚,平原高唐人.代荀彧為尚書令.慮字鴻預,山陽高平人.」

[七] 魏志にいう。「華歆は字を子魚といい、平原郡高唐県の人である。荀彧に代わって尚書令となる。〔郗〕慮は字を鴻預といい、山陽郡高平県の人である。」


自注(1):本伝によると伏完の妻は桓帝の娘である陽安公主劉華だが、伏皇后の母盈(姓は不詳)は陽安公主と別人。


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