我的後漢書

>>> 後漢列伝 --王覇妻伝--



太原王霸妻者,不知何氏之女也.霸少立高節,光武時,連徴不仕.霸已見逸人傳.妻亦美志行.初,霸與同郡令狐子伯為友,後子伯為楚相,而其子為郡功曹.子伯乃令子奉書於霸,車馬服從,雍容如也.霸子時方耕於野,聞賓至,投耒而歸,[一]見令狐子,沮怍不能仰視.[二]霸目之,有愧容,客去而久臥不起.妻怪問其故,始不肯告,妻請罪,而後言曰:「吾與子伯素不相若,向見其子容服甚光,舉措有適,而我兒曹蓬髮歴齒,未知禮則,[三]見客而有慙色.父子恩深,不覺自失耳.」妻曰:「君少修清節,不顧榮祿.今子伯之貴孰與君之高?柰何忘宿志而慚兒女子乎!」霸屈起而笑曰:[四]「有是哉!」遂共終身隱遯.

太原の王霸の妻は、何れの氏の女かを知らざるなり。霸少くして高節を立て、光武の時、連りに徴せらるるも仕へず。霸已に逸人の傳に見え、妻も亦志行を美とす。初め、霸同郡の令狐子伯と友たり、後に子伯楚の相と為り、其の子郡の功曹と為る。子伯乃ち子をして書を霸に奉ぜしめ、車馬服從し、雍容如たり。霸の子時に方に野に耕し、賓の至るを聞き、耒を投じて歸り、[一]令狐の子に見ゆるに、沮怍して仰視する能はず。[二]霸之を目るに、愧容有り、客去りて久しく臥して起たず。妻怪しみて其の故を問ふも、始め告ぐるを肯んぜず、妻罪を請ひ、而る後に言ひて曰く「吾子伯と素より相若ず、向に其の子を見るに容服甚だ光り、舉措適ふ有り、而して我が兒曹蓬髮歴齒にして、未だ禮則を知らず、[三]客を見て慙色有り。父子恩深くして、覺えず自失せるのみ。」と。妻曰く「君少くして清節を修め、榮祿を顧みず。今子伯の貴きは君の高きに孰與れぞ。柰何ぞ宿志を忘れて兒女子を慚ずるや。」と。霸屈起して笑ひて曰く[四]「是れ有るかな。」と。遂に共に終身隱遯す。

太原の王覇の妻は、何という姓の家の娘か分からない。王覇は若い頃から節操を高く持ち、光武帝の時、度々召し出されたが出仕しなかった。王覇は既に〔後漢書の〕『逸民伝』に〔その伝が〕見え、妻もまた考えや行動が優れていた。もともと、王覇は同郡の令孤子伯と友人であり、後に子伯が楚国の相となり、子伯の子が郡の功曹となった。子伯はそこで息子に手紙を王覇に持って行かせ、〔子伯の子には〕車馬が付き従い、穏やかなさまであった。王覇の子はその時ちょうど田野で耕作をしていたが、重要な客人が来たのを聞いて、鋤を放り投げて〔家に〕帰り、令孤〔子伯〕の子にお会いすると、くじけて恥じ入り仰ぎ見ることができなかった。王覇はこの様子を見て、恥ずかしくなり、客が帰っても横になったまま起きなかった。妻が不審に思ってその理由を尋ねたが、最初は答えようとせず、妻が〔自分のせいだと思って〕罪を詫びると、〔王覇は妻に向かって〕言った。「私はもともと子伯とは〔生活が〕同じではなく、先程子伯の子を見ると容貌や服装はとても光り輝いており、立ち居振る舞いは〔礼に〕かなっていたが、私の子は髪はぼさぼさで歯は抜けたままで、まだ礼儀も分からず、客に会って恥ずかしがっていた。親子の情は深いもので、思わず気が抜けただけだ。」妻は言った。「あなたは若いときから清廉な節操を身につけて、栄誉や俸禄には目もくれなかった。今子伯殿が高貴であるのはあなたの持つ節操が高いのとどちらが優れているだろうか。どうして長年の志を忘れて女子供のことに恥じ入っているのか。」王覇は立ち上がって笑って「その通りだ。」と言った。そのまま二人は共に生涯隠遁の生活を送った。

[一] 鄭玄注禮記云:「耒,耜之上曲者也.説文曰:『耒,手耕曲木.』」

[一] 鄭玄の注で礼記にいう。「耒は、耜の上の部分が曲がったものである。説文にいう。『耒は、手で耕すときの曲った木のことである。』」

[二] 沮,喪也.怍,■也.

[二] 沮は、喪のことである。怍は、■のことである。

[三] 曹,輩也.

[三] 曹は、輩のことである。

[四] 屈音渠勿反.

[四] 屈の音は渠勿の反である。


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