我的後漢書

>>> 後漢列伝 --献穆曹皇后紀--



獻穆曹皇后諱節,[一]魏公曹操之中女也.建安十八年,操進三女憲、節、華為夫人,聘以束帛玄纁五萬匹,小者待年於國.[二]十九年,並拜為貴人.及伏皇后被弑,明年,立節為皇后.魏受禪,遣使求璽綬,后怒不與.如此數輩,后乃呼使者入,親數讓之,以璽抵軒下,[三]因涕泣橫流曰:「天不祚爾!」左右皆莫能仰視.后在位七年.魏氏既立,以后為山陽公夫人.自後四十一年,魏景(初)[元]元年薨,合葬禪陵,車服禮儀皆依漢制.

獻穆曹皇后諱は節、[一]魏公曹操の中女なり。建安十八年、操三女憲、節、華を進めて夫人と為し、聘するに束帛玄纁五萬匹を以てし、小なる者は國にて年を待つ。[二]十九年、並びに拜して貴人と為る。伏皇后の弑せらるるに及びて、明くる年、節を立てて皇后と為す。魏禪を受け、使を遣わして璽綬を求むも、后怒りて與へず。此くのごときこと數輩にして、后乃ち使者を呼びて入れ、親ら之を數讓し、璽を以て軒下に抵ち、[三]因りて涕泣橫流して曰く:「天爾に祚せず!」と。左右皆能く仰視すること莫し。后位に在ること七年なり。魏氏既に立ち、后を以て山陽公夫人と為す。自後四十一年、魏景(初)[元]元年に薨じ、禪陵に合葬され、車服の禮儀は皆漢の制に依る。

献帝の曹皇后は諱を節といい、[一]魏公曹操の次女である。建安18(213)年、曹操は三人の娘曹憲、曹節、曹華を差し出して〔献帝の〕夫人にし、〔献帝は〕赤黒い絹織物五万匹でもって結納とし、〔娘のうち〕年少の者は国許でその成長を待った。[二]建安19(214)年、〔妹の曹華と〕ともに礼節をもって〔献帝に〕面会し、貴人となった。伏皇后が殺されたのに及んで、次の年、曹節が皇后になった。魏が漢より受禅し、〔曹丕は〕使者をやって玉璽と帯紐を取りに行かせたが、皇后は怒って与えなかった。このようなことが数回に及んだので、皇后はそこで使者を呼び入れて、自らあれこれと数えたてて責めとがめ、玉璽を軒下に投げ捨てて、[三]そこで涙を流して「天はお前に福を授けなかった」と言った。左右の者は皆〔皇后を〕仰ぎ見ることができなかった。皇后は在位7年であった。魏は既に帝位に就き、皇后を山陽公夫人とした。41年後、魏の景元元(260)年に亡くなり、〔献帝とともに〕禅陵に合葬され、〔葬儀における〕車や服装の儀礼は全て漢の制度に従った。

[一] 謚法曰:「布德執義曰穆.」

[一] 謚法にいう。「徳を布いて義を執り行うことを穆という。」

[二] 留住於國,以待年長.

[二] 国許に留まって暮らし、成長するのを待った。

[三] 抵,擲也.軒,闌板也.

[三] 抵は、擲のことである。軒は、闌板のことである。


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