我的後漢書

>>> 後漢列伝 --孝仁董皇后紀--



孝仁董皇后諱某,河閒人.為解犢亭侯萇夫人,[一]生靈帝.建寧元年,帝即位,追尊萇為孝仁皇,陵曰慎陵,以后為慎園貴人.及竇氏誅,明年,帝使中常侍迎貴人,并徴貴人兄寵到京師,上尊號曰孝仁皇后,居南宮嘉德殿,[二]宮稱永樂.拜寵執金吾.後坐矯稱永樂后屬請,下獄死.

孝仁董皇后諱は某、河閒の人なり。解犢亭侯萇の夫人と為り、[一]靈帝を生む。建寧元年、帝位に即き、萇を追尊して孝仁皇と為し、陵は慎陵と曰はしめ、后を以て慎園貴人と為す。竇氏の誅さるに及び、明年、帝中常侍をして貴人を迎へしめ、并せて貴人の兄寵を徴して京師に致しめ、尊號を上りて孝仁皇后と曰ひ、南宮の嘉德殿に居らしめ、[二]宮は永樂と稱す。寵を拜して執金吾たらしむ。後に矯りて永樂后を稱して屬請するに坐して、獄に下されて死す。

孝仁皇の董皇后は〔諱が分からないため〕諱を某といい、河間郡の人である。解犢亭侯劉萇の夫人となり、[一]霊帝を生んだ。建寧元(168)年、霊帝は帝位に就き、〔生父の〕劉萇を追尊して孝仁皇とし、〔劉萇の〕陵は慎陵といい、〔生母の〕皇后を慎園貴人とした。竇氏が誅殺されると、翌年、霊帝は中常侍に〔生母の〕貴人を迎えさせて、併せて貴人の兄である董寵を召しだして洛陽に参らせ、〔董貴人には〕尊号を奉って孝仁皇后といい、南宮の嘉徳殿に住まわせ、[二]御所を永楽宮と称した。董寵を任じて執金吾に就けた。〔董寵は〕後におごり高ぶって永楽后と称して〔権力者に私事を〕頼み込んだのに連座して、獄に下されて死んだ。

[一] 萇,河閒孝王開孫淑之子也.

[一] 劉萇は、河間孝王劉開の孫の劉淑の子である。

[二] 嘉德殿在九龍門内.

[二] 嘉徳殿は九龍門の内側にある。


及竇太后崩,始與朝政,使帝賣官求貨,自納金錢,盈滿堂室.中平五年,以后兄子衛尉脩侯重[一]為票騎將軍,領兵千餘人.初,后自養皇子協,數勸帝立為太子,而何皇后恨之,議未及定而帝崩.何太后臨朝,重與太后兄大將軍進權埶相害,后毎欲參干政事,太后輒相禁塞.后忿恚詈言曰:「汝今輈張,怙汝兄耶?[二]當勅票騎斷何進頭來.」何太后聞,以告進.進與三公及弟車騎將軍苗等奏:「孝仁皇后使故中常侍夏惲、永樂太僕封諝等交通州郡,[三]辜較在所珍寶貨賂,悉入西省.[四]蕃后故事不得留京師,[五]輿服有章,膳羞有品.請永樂后遷宮本國.」奏可.何進遂舉兵圍驃騎府,收重,[重]免官自殺.后憂怖,疾病暴崩,在位二十二年.民閒歸咎何氏.喪還河閒,合葬慎陵.

竇太后の崩ずるに及び、始めて朝政を與り、帝をして官を賣りて貨を求めしむ。自りて金錢を納め、堂室を盈滿せしむ。中平五年、后の兄子衛尉脩侯重を以て[一]票騎將軍と為し、兵千餘人を領せしむ。初め、后自ら皇子協を養ひ、數帝に勸めて立てて太子と為すに、何皇后之を恨み、議未だ定まらざるに及びて帝崩ず。何太后朝に臨みて、重と太后の兄大將軍進權埶相害し、后參じて政事を干せんと欲する毎に、太后輒ち相禁塞す。后忿恚して詈言して曰く:「汝今輈張なるも、汝の兄を怙むか?[二]當に勅して票騎をして何進の頭を斷ちて來たらしむべし。」何太后聞きて、以て進に告ぐ。進と三公及び弟の車騎將軍苗等奏すならく:「孝仁皇后は故に中常侍夏惲、永樂太僕封諝等をして州郡と交通せしめ、[三]在所なる珍寶貨賂を辜較し、悉く西省に入る。[四]蕃后の故事は京師に留むることを得ず、[五]輿服に章有りて、膳羞に品有り。請ふ永樂后をして本國に遷宮せしめん。」奏可とす。何進遂に兵を舉げて驃騎府を圍み、重を收へ、[重]免官して自殺す。后憂怖して、疾病なりて暴かに崩ず、位に在ること二十二年なり。民閒く何氏に咎を歸す。喪して河閒に還り、慎陵に合葬せらる。

竇太后が崩御すると、〔董太后は〕はじめて政治に関わり、帝に売官をさせて財貨を手に入れさせた。そのため金銭を納めて、御所の部屋を〔金銭で〕満ちさせた。中平5(188)年、董太后の兄の子で衛尉、脩侯の董重を[一]票騎将軍とし、兵士千余名を率いさせた。はじめ董太后は自分で〔霊帝の〕皇子協を養育し、度々霊帝に〔協皇子を〕立太子するよう勧めると、何皇后はこのことを恨み、〔そうこうするうち立太子の〕議論が決まらないうちに霊帝は崩御した。〔霊帝の没後は〕何太后が朝廷に臨席し、董重と何太后の兄で大将軍の何進が互いに権勢をさまたげ、董太后が参内して政治に関わろうとするたびに、何太后はすぐにさえぎった。董太后は怒って言った。「お前は今頑固だけれど、兄〔の何進〕を頼みにしているのかい。[二]〔それなら私は〕当然詔を出して票騎〔将軍の董重〕に何進の頭をぶったぎって持って来させるのがいいわね。」何太后はこれを聞いて、何進に注進した。何進と三公、そして弟で車騎将軍の何苗は〔少帝に〕奏上して言った。「孝仁皇后はわざわざ中常侍の夏惲と、永楽太僕の封諝たちに州郡と交際させ、[三]珍しい宝や賄賂を独占し、すべて〔永楽宮の役所である〕西省に納入されています。〔前漢の〕蕃后の故事では都に留まることができませんでした。[五]輿や服には決まりがあって、食事にも等級があります。どうか董太后を本国へ遷宮させて下さい。」奏上は許可された。何進はそこで挙兵して驃騎将軍府を包囲し、董重を捕らえ、〔董重は〕免官して自殺した。董太后は憂い恐れて、病気にかかり急に崩御した。在位22年であった。民衆はしばらくの間過失を何氏に当てはめた。葬礼を執り行って〔董太后の遺体は夫の封地である〕河間に帰還し、慎陵に合葬された。

[一] 脩,今德州縣也,故城在縣南.「脩」今作「[艸+脩]」,音條.

[一] 脩は、今の徳州県であり、故城は県の南にある。「脩」は今「[艸+脩]」とし、音は條である。

[二] 輈張猶彊梁也.

[二] 輈張はちょうど頑固で気力が強いことである。

[三] 漢官儀曰:「永樂太僕,用中人為之.」

[三] 漢官儀にいう「永樂太僕は、宦官を用いた。」

[四] 辜較,解見靈紀.西省,即謂永樂宮之司.

[四] 辜較は、霊帝紀にその解釈がある。西省は、永楽宮の役所をいう。

[五] 蕃后謂平帝母衛姫.時王莽攝政,恐其專權,后不得留在京師,故云故事也.

[五] 蕃后は〔前漢の〕平帝の母衛姫のことをいう。当時王莽が摂政であり、王莽が権力をほしいままにすることを恐れ、衛姫は都に留まることができなかった、この故事を指す。


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