我的三国志
>>> 三国列伝 --賈詡伝--

■□1.正史の賈詡と裴注の賈詡

賈詡、字は文和。武威郡姑臧県の出身。
賈詡は三国志中でも超有名人の部類に入り、謀士・策士という印象を持っている人も少なくないと思われるが、正史でも荀彧・荀攸らと共に立伝されている。董卓や袁紹、劉表などの後漢末に活躍した群雄を除くと、直臣としては魏の宗室夏侯氏の直後に伝があることから、曹家の直臣として高い位置を占めていたと(少なくとも陳寿からは)評価されていたのだと思われる。実際に著者陳寿の評価もなかなか良いものであり、荀彧荀攸賈詡伝の最後で述べられている陳寿の評では、「荀攸・賈詡は前漢の張良・陳平に次ぐ人物であろうか。」と、前漢建国の功臣たる張良や陳平と並び称されている。
しかし。
この陳寿の評に対し、裴松之は次のような注をつけている。
「賈詡のような人物は同類が数多くいる。程昱や郭嘉と伝を共にせず二荀(荀彧・荀攸)と並べたのは誤りである。その上荀攸の人柄と賈詡の人柄では夜光の珠とおがらの灯ほど違っている。」
(おがらとは皮をはいだ麻の茎で、お盆の迎え火・送り火に使う。)
照らすという点では同じであるが、質が全く違っている。ということを裴松之は言いたかったらしい。
だがどうしてこうも二人の人間で評価が分かれるのだろうか。
正史の中においてこの荀彧荀攸賈詡伝を見る限りでは、裴松之の評価は二荀はべた褒めで、賈詡はボロクソに非難されている。この違いを追って考察してみたい。

■□2.仕官以前

賈詡の生没年は不明で、若い頃の記述も雲をつかむようにあやふやで曖昧である。賈詡伝の冒頭部では次のように記されている。
若いとき認める人はいなかったが、ただ漢陽の閻忠だけは彼を評価し、『賈詡には張良や陳平のような奇策がある』と言っていた。・・・病気で役人を辞め、西方へ帰った。
閻忠という人物は正史においては賈詡伝の冒頭にしか登場せず、後漢書にも名前だけは見えるものの記されている内容は正史の裴注とさして変わらない。裴注によると、彼は黄巾の乱が起こった中平元(184)年に皇甫嵩に対して漢朝を乗っ取るよう進言し、聞き入れられなかったために逃亡し(『九州春秋』)、中平四(187)年に涼州で王国の乱があったときは指導者に祭り上げられている(『英雄記』)人物であるとされている。
賈詡はなぜ閻忠からしか認められなかったのか。それは賈詡の出身地が関係しているのだろう。賈詡の出身地である武威郡姑臧県は後漢書郡国志によると「故匈奴休屠王地」つまり匈奴の王が支配していた地と記されているのだ。後漢末の長安でさえ、赤眉の乱以来荒廃した都市とされているくらいだから、賈詡はとんでもない辺境の出身なのである。当時の事を考えると中央まで名前が知られていないことは容易に予想がつく。そんな彼を唯一認めたのが閻忠である。閻忠は車騎将軍で安定郡出身の皇甫嵩にも仕え、後に賊徒の指導者にまでなるくらいであるから、地元-長安以西-では一目置かれた名士だったのだろう。
西方への帰途、賈詡は氐族に捕まった。この時賈詡は「私は段公の外孫である。私を殺した後、他の者とは別に埋葬せよ。私の家人は充分に礼をして引き取りに来るだろう。」と言った。
賈詡が言う段公とは後漢末の大尉段熲のことで、後漢書では護羌校尉、破羌将軍などを歴任していたと記されており、西方異民族にはある程度影響力を持った人間だったと考えられる。もちろん賈詡は段熲の外孫でも何でもないが、そんな段熲を引き合いに出して堂々と外孫だと大見得を切る賈詡も頭が切れるというか胆力があるというか、頼もしい逸話である。
結局氐族は賈詡に危害を加えず、賈詡と盟約を結んで送り出した。陳寿は賈詡がその場に応じて物事に対処するやり方は皆こうした具合だったと評している。

■□3.董卓軍への参入

董卓が洛陽に入城すると、賈詡は大尉掾のまま平津都尉に任じられ、討虜校尉に栄転した。
賈詡が中央の政界に姿を現すきっかけはこれだけしか記されていない。賈詡伝の記述は前述の通り年代が不明瞭であるため、いつ賈詡が董卓軍下に入ったのかは不明である。董卓は上洛の前に王国の乱鎮圧のため涼州に遠征していたことがあるので、この頃賈詡が帰郷していたとすれば、董卓が涼州に来た際に仕官したのかもしれない(となると賈詡が董卓幕下に入るのは辺章・韓遂の乱が起こる中平二(185)年から王国の乱が鎮圧される中平五(187)年の間であると思われる)。しかし賈詡が自ら仕官したのか董卓側から召しだしたのかは記されていないので想像の域を出ない。
当時董卓の娘婿の中郎将牛輔は陝に駐屯していたが、賈詡はその軍中にいた。同じく牛輔配下の李
・郭汜・張済らは、牛輔の命令で陳留や潁川を攻略していた。董卓が王允らによって殺害されると、呂布は李粛に命じて牛輔を討たせたが、牛輔は李粛を退けた。しかし牛輔は兵士の反乱にあって殺害され、李
らが帰還した頃には既に牛輔が死んだ後だった。李
らは軍を解散して郷里に戻ろうと考えていたが、賈詡が次のように進言した。「長安では涼州人を皆殺しにしようと言っているのに単独で行っては捕まってしまいます。軍勢を率いて長安を攻め、亡き董公(董卓)の復讐をした方が良いでしょう。うまくいけば天子を奉じて天下を征伐すればいいし、失敗すればそれから逃亡しても遅くはありません。」李
らはこれをもっともだと考えて西進して長安を攻撃した。
裴松之はこれを受けて次のように述べている。「この時点において悪の中心董卓は獄門台に晒されて、世界がようやく明るくなろうとしていたのに、国家を衰微の憂き目にあわせたのは賈詡のせいではないだろうか。賈詡の犯罪の何と大きい事よ。昔から動乱の発端で、これほどひどいものは未だかつてない。」
裴松之は賈詡を散々ボロクソに非難しているが、賈詡としては当然の判断だっただろう。迂闊に単独行動をして王允らに捕まって処刑されるよりは軍を率いて攻め滅ぼしてやろう。まさにやられる前にやり返せという自己防衛の発想だ。実際に、李
らはこの功績によって賈詡を侯に封じようとしたが、賈詡は「あれは生命を救うための計略でした。どこに功績がありましょう。」と言い、固辞して受けなかった。実に謙虚である。

■□4.長安入城後

長安入城後賈詡は左馮翊となり、侯位も尚書僕射の官も固辞したが、尚書に任命されたため官吏の登用を司って政治を正そうとした。李
らは賈詡を信任しつつも煙たがっていた。李郭の乱が起こると張繍は賈詡に向かって長安を去るよう進言するが、賈詡は「自分は国家から恩を受けているためこれに背くことは出来ない」と言って、逆に張繍に長安を去るよう勧める(『献帝紀』)。また李
は再度要請して賈詡を宣義将軍に任じた。李
と郭汜が和睦すると天子を長安から脱出させ、廷臣を殺そうとする李
を諫めて思い止まらせた。天子が長安を脱出した後、賈詡は印綬を天子に返上した。
尚書僕射は固辞しつつも尚書として官吏任用権を用いて乱れた政治を立て直そうとしたり、廷臣を李
の魔の手から守ろうとするあたりに賈詡の努力の跡が見える。悪の一味と言うよりはどちらかというと国を憂う王允のようなイメージが強い。張繍の進言にも耳を貸さず、大義を全うして任を果たそうとする賈詡の使命感には感心させられる。李
は賈詡を煙たがってはいたものの戦闘の際には宣義将軍に任じるなど、賈詡の軍事的采配能力は高く評価していたようだ。
当時賈詡と同郷である将軍の段煨が華陰に駐屯していた。彼は略奪も働かず農業に従事していた(『典略』)。賈詡は李
の下を離れて段煨の下に身を寄せた。賈詡は有名であったため軍中で注目の的となったが、段煨は賈詡に権力を奪われないかと恐れていた。しかし表面的には賈詡に手厚く礼を尽くしたため、賈詡は不安に駆られる。
天子を長安から送り出して役目を果たし、もう長安には互いに争い合う愚将しか残っていないため長居は無用と考えたためであろうか、賈詡はそそくさと官を辞して同郷の将段煨の下に身を寄せる。段煨は猜疑心が強い人物として描かれているが、後に天子の東行を助けて後に栄転する(『典略』『献帝紀』)。なぜ賈詡は天子に付き添わなかったのだろうか。これは頼りない朝廷がこの先どんな試練に遭遇するかと考えると自分にとってプラスにならないと考えたからだろう。賈詡は天子の身を関東の群雄に託して、自らはおとなしく保身に徹しようとしたのだろう。

■□5.張繍の下で

張繍が南陽にいたとき、賈詡は張繍と連絡を取り合っていた。賈詡は段煨に厚遇されていたにも拘わらず、張繍の迎えに応じようとするため、ある人は賈詡に疑問を投げかける。これに対して賈詡は「段煨は猜疑心が強く私を警戒している。礼は厚くとも将来は命を狙われるやも知れない。むしろ私が外に出て強力な支援者と結びつくことを期待し、私の家族を大切にしてくれるだろう。張繍も参謀がいないから私を欲しがっている。だから私も家族も安全なのだ。」と言った。こうして賈詡が張繍の下に赴くと、張繍は子孫の礼をもって遇し、段煨は賈詡の家族の面倒をよく見た。
賈詡の状況分析は何と言っても鋭い。自分の能力をよくわきまえ、周囲の状況を的確に把握している賈詡の冷静さが如実に反映されている逸話である。一見自慢っぽく見えるかもしれないが、こういったことをサラッと言ってのける賈詡は何とも憎めないキャラである。賈詡の洞察力はこの後も遺憾なく発揮されることになる。
賈詡は劉表と同盟することを張繍に進言した。賈詡は劉表との会見の後、感想を次のように述べている。「劉表は平和な時代なら三公になれるが、事態の変化を見抜けず、猜疑心が強く決断力が無いため、何事も成し遂げられないだろう。」(『傅子』)
この分析は実に良く的中しており、賈詡の『読み』の正しさがうかがえる。劉表は自分と同じ優柔不断な袁紹と結んだばかりに、曹操の背後を突くことが出来ず、外戚である蔡氏一門の専横を許し、曹操の荊州侵略を指をくわえて見ているしかなかったのである(もっとも、本格的な荊州侵攻は劉表の死後であるが)。
まもなく曹操との宛攻防戦が始まった。ある日曹操が突然撤退するので張繍は賈詡の諫めを聞かず追撃し、大敗した。張繍が敗れて戻ってくると、今度は敗軍を連れて追撃するよう賈詡は進言した。この結果張繍は曹操を破って勝利を得た。これを不思議に思った張繍は賈詡に理由を尋ねると、次のように答えた。「将軍(張繍)は戦争が上手だが曹公(曹操)にはかなわない。敵が撤退するとき曹公が殿軍を務めるはずなので将軍は勝てるはずが無く、また曹公が全力を出さないうちに撤退したのは必ず国内に変事があったからに違いない。曹公が一度将軍を破れば全軍に軽装をさせて速やかに撤退させ、諸将に殿軍を任せるとは言ってもこれらは将軍にはかなわない。だから敗残の兵を用いても勝てたのだ。」これを聞いて張繍は初めて感服した。
以前に李
が賈詡の采配力を買ったときと同様、この逸話からも賈詡が用兵術に長けているということがうかがい知れる。歴戦の強者曹操が相手と言えども、ひるむことなく張繍に対して状況に応じた的確な戦略を提案し続けるところが策士賈詡である。
曹操と袁紹が官渡で対峙した際、袁紹は張繍に使者を送って同盟を申し込んだ。張繍は乗り気だったが賈詡は使者に向かって「兄弟にも受け入れられない(袁術との不仲をさす)者がどうして天下の国士を受け入れられようか。」と言い、きっぱりと同盟を断った。張繍が誰と同盟を結べばよいか賈詡に尋ねると、賈詡は曹操に従うことを提案した。その理由を次のように述べている。「第一に曹操は天子を奉じて天下に号令している。第二に強大な袁紹と違って曹操は弱小勢力だから、かえって少ない軍勢の我々でも重用される。第三に天下を支配しようと志す者は我々と戦ったという私怨を忘れて徳義を重んじようとするものだ。」こうして張繍が曹操に帰順すると、曹操は喜んで賈詡を執金吾に任じ、都亭侯に封じ冀州牧に栄転させた。冀州はまだ平定されていなかったので曹操は賈詡を側に置いて参司空軍事とした。
戦乱の世においての見事な処世術である。袁紹に利無しと判断してさっさと曹操に帰順し、誰が私怨など気にするものかとのうのうと言ってのけるあたりが何とも大胆である。これ以後賈詡は曹操に重用されることとなる。曹操も能力がある人間には旧怨を忘れて官位を与えるあたりが何とも人材登用がうまいが、確かに賈詡が言うとおり、この頃の曹操陣営は人材が乏しかったので彼らが重用されたのも当然だと言えよう。

■□6.曹操の下で

袁紹が官渡で曹操を包囲し、曹操軍の兵糧が底をついたとき、曹操はこれに対処する戦略を賈詡に尋ねた。賈詡は、「公(曹操)は、聡明さ、勇敢さ、人の使い方、機を逃さず決断する点の四つの点において袁紹に勝っています。機を逃さず決断を下せばたちどころに片付けることができましょう。」と答えた。曹操はこれを受けて袁紹軍を包囲し、これを潰滅させて河北を平定した。曹操は自ら冀州牧に就いて賈詡を太中大夫に転任させた。
これは官渡において曹操軍が攻撃を仕掛けるときのきっかけとなった、賈詡の有名なセリフである。前述の通り賈詡の状況分析力と的確な判断力が優れていたことがうかがえる。
この後裴松之の痛烈な非難が始まる。
建安13(208)年、曹操は荊州攻略後、江東平定のため長江沿いに東進しようとした。ここで賈詡は次のように進言している。「明公(曹操)は袁氏を討った後に漢水南域を併呑し、その威名は遠方まで響き軍事力は強大となっています。かりに旧楚の地の豊かさを利用して土地を慰撫すれば、軍を出すまでもなく江東が帰順しましょう。」曹操はこれを聞き入れず江東に進軍し、結局勝利を得られなかった。赤壁の戦いのことである。
裴松之これに対して次のように述べている。「賈詡のこの戦略は時宜にかなっていない。当時関西では韓遂・馬超が中原を窺っており、曹操が荊州でその威光のみに頼って江東を従える余裕が無かったことは明白である。荊州の民は劉備を慕って孫権を恐れ、荊州は二者の争奪の的となるべき地であるため曹氏が防御しきれるものではない。よって後に曹仁は江陵で敗北を喫したのである。これでは江東を「慰撫」も「帰順」もさせることができるはずがない。この時こそ荊州を平定し江東を揺さぶる絶好の機会であったのに、この機に乗じないでいつの機会を期待するつもりなのだろうか。赤壁の敗戦は人間の責任ではなく天命であり、おそらくそうなる運命だったのであって曹操の失策ではない。従って賈詡のこの計略は妥当性を欠いている。」
後に曹操が張魯を平定して蜀が混乱に陥った際、劉備はこれを収拾できなかったが、この時曹操は入蜀せよという劉曄の献策を用いなかったため曹操が蜀を奪う機会を逸したという逸話がある。裴松之はこの事例も引き合いに出して、「目算がはずれた後でいくら後悔しても追いつかず、世間の人が劉曄を正しいとする以上賈詡の誤りがはっきりする。」と付け加えている。
この指摘の面白いところは、赤壁の敗戦を曹操の失策ではないとしているところである。疫病の流行と風向きの変化は、人間の力ではどうしようもなかったと言いたいらしい。韓遂・馬超の動きに着目したところは裴松之も鋭く、江東遠征の最中も曹操の頭にも関西の動向が引っかかっていたことだろう。実は賈詡はこれと似た進言を後の文帝たる曹丕に奏上している。従ってこの時の賈詡の真意はまとめて後述する。
後年曹操が韓遂・馬超と交戦した際、馬超らは和睦の条件として土地の割譲と人質を要求した。賈詡は偽って承諾し彼らを分離させることを主張した。曹操は以後賈詡の献策を採用し、この時韓遂・馬超を撃破できたのは賈詡のおかげであると陳寿は評している。

■□7.お家騒動

当時曹丕は曹操の後継者とされていたが、曹丕の弟の曹植も評判が高く、何より父親の曹操がかわいがっていた。曹丕と曹植はそれぞれが党派を作って、正統な後継者の座を巡って争っていた。曹丕が自分の立場を固めるために賈詡に方策を尋ねると、賈詡は「有徳の態度でもって無官の者のような謙虚な行いをなさいませ。」と進言したため曹丕はこれに従ってひたすら修養に努めた。ある時曹操が人払いをして賈詡に後継者の問題を尋ねると、賈詡は黙ったまま答えなかった。曹操が「君と話しているのになぜ答えないのか。」と問うと、賈詡は「袁紹と劉表のことを考えていたのです。」と答えた。この二者は嫡子を廃したため死後お家騒動の原因を作ったのである。曹操はこれを聞くと大笑いし、後継者は曹丕で定まった。
この逸話も有名なものであるが、余計な知恵を巡らすこともなく物事を穏便に解決しようとする賈詡の態度が表れ出ている。賈詡は自分が譜代の臣でもないのに策略に長けていることから疑惑を持たれることを恐れてひっそりと暮らした。朝廷から退出しても私的な交際をせず、子供の結婚相手にも貴族の家柄は選ばなかったので、天下の人は彼に心を寄せた。「出る杭は打たれる」ことをよくわきまえており、常に自らの保身に努めていた賈詡の人生がよく映し出されている。曹丕はこの時の曹操と賈詡のやりとりを聞いていたため、後に即位すると賈詡を大尉に任じ、爵位を魏寿亭侯に上げて封邑を加増した。下の子の賈訪は列侯となり、長子の賈穆は駙馬都尉に任じられた。
ある時、文帝(曹丕)が賈詡に天下統一のため呉と蜀のどちらを先に討てばよいか尋ねた。賈詡は「呉・蜀は微小なれども天然の要害たる山河に依拠し、諸葛亮が劉備を、陸議(陸遜)が孫権をよく補佐しています。蜀の天険と呉の船団には容易に手を下すことができません。今群臣を見渡しても劉備や孫権に匹敵する者はおらず、呉・蜀を討つとも万全な状態ではありません。昔舜が舞によって異民族を従えたように武よりも文を優先したほうが妥当だと考えます。」と進言したが、文帝は聞き入れなかった。このため後の江陵の戦いで多くの死傷者を出すことになる。
これは正史に記される賈詡の最後の献策である。赤壁の時に後述すると言った賈詡の真意であるが、赤壁にしろ後継者問題にしろ今回の文武論議にしろ、賈詡は常にその場に応じた均衡を図ろうとしてきた。賈詡が天下三分の計論者であるという記述はどこにもないが、諸葛亮が劉備に三国鼎立という中庸かつ均衡の状態を献策したことと、赤壁の際の賈詡の主張はどこか似たものを感じさせられる。統一王朝として前後400年に渡って栄えた漢王朝の崩壊を目の当たりにしてきて、戦乱の世においては統一よりも均衡が重要であると賈詡は考えていたのかもしれない。自らを積極的に主張することなく、保身ということを念頭に置いて静かにひっそりと生きてきた賈詡の生き様を、正史賈詡伝は如実に物語っている。

■□8.賈氏のその後

賈詡は77歳で亡くなったと正史に記されているが、死因ははっきりしない。多分病没であろう。死後は粛侯と追諡され、長子の賈穆が後を継いで軍守を歴任した。賈穆の死後は賈模が後を継いだ。『世語』によると、賈模は晋の恵帝の代で散騎常侍・護軍将軍となり、子の賈胤、賈胤の弟の賈龕、従弟の賈疋らは揃って晋王朝で栄華を極めたとされている。
私はこの考察を通してその善悪は別として保身を旨とした賈詡の生涯に非常に感銘を受けた。統一王朝である晋王朝が八王の乱によって再び分裂に向かうのを肌で感じ、賈詡の中庸・保身・均衡の理念に共感した陳寿は、賈詡を張良や陳平と並び称すことでその共感を文章に表したのかもしれない。一方南北朝分裂期の南朝宋に生まれ育った裴松之は、漢民族による再統一を願うあまりに、要所要所で統一のチャンスを逃してきた賈詡の献策に腹立たしさすら感じたのかもしれない。全ては推測に過ぎないが、正史を通して当時の時代背景から統一期に生きた人間と分裂期の人間の価値観の違いを推し量ることができるのかもしれない。
【Special Thanks to そとのおさま】