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我的三国志
>> 三国志介紹 - 9
■□曹操の台頭
冀州の袁紹と敵対していた幽州の公孫瓚は、勢力の拡充を図って青州の黄巾残党征伐に乗り出します。そしてその返す刀で冀州の袁紹領を侵犯し、両軍は界橋で対峙します(界橋の戦い)。この戦いは袁紹が勝利し、以後公孫瓚の勢力は一気に減衰していきました。
この後袁紹は公孫瓚を滅ぼして河北四州(幽・冀・青・并)を領有する大勢力に成長します。
滎陽の戦いで董卓軍に敗れた曹操は、丹楊兵の反乱の後河内に駐屯し、袁紹の下に身を寄せていました。曹操は河南を勢力下に収めるため、黒山賊の討伐に兗州の東郡へと向かい、見事これを撃破しました。これによって袁紹は上奏して曹操を東郡太守に任命しました。次いで曹操は兗州刺史の劉岱を殺害した青州の黄巾残党を討伐し、30万の兵を降伏させます。曹操はこの中から精鋭を選りすぐって「青州兵」として傘下に組み込みました。
東郡の陳宮は劉岱の後任に曹操を就けるため州内の郡太守に根回しをし、以後曹操は兗州牧として兗州を領有することとなります。
■□匡亭の戦い
孫堅が荊州で戦死した後、袁術は公孫瓚に袁紹を牽制させつつ北上の機会を窺っていました。袁術は兗州の曹操領へ自ら兵を率いて侵攻し、公孫瓚と共に袁紹・曹操を挟撃しようとしました。しかし「青州兵」によって軍事力を強化した曹操は、匡亭を守る袁術軍の劉詳を撃破し、封丘で後続の袁術軍を大敗させました。曹操軍に敗れた袁術は揚州の九江郡まで敗走することになります。九江に落ちのびた袁術は揚州の州都・寿春を攻略し、揚州刺史の陳温を殺害します。
こうして袁術は南陽から淮南一帯へと勢力範囲を移すことになりました。
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