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自動車業界は、新しい時代に入っていました。そして、その新しい時代を生き残るためのモデルが求められていました。 |
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誰もが欲しがるような優れた設計のもとに造られた車だ。」 |
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そう考えたレオナード・ロード会長は自らの理想を形にできる人材を外部に求めます。 その彼の目に留まったのが、まだ戦争の傷の癒えていない1942年にモーリス・マイナーを設計、大成功させた後、合併騒ぎのゴタゴタを嫌って会社を去っていったトルコ生まれの英国系ギリシア人、アレック・イシゴニスでした。 会長はなんとアレックに新型車開発のすべてを託し、アレックも製品の優秀さを第一に考える会長の考え方に共感します。 こうして1956年に動き出した、わずか9人のプロジェクトチームは、早くもその年の内に試作車第1号を生み出します。 ・・・が、ここで計画は大きな壁に突き当たるのです。 1956年9月、英国の支配力が衰えたエジプトが、東部にあるスエズ運河を国有化して管理することを宣言します。 運河会社の株を持つイギリスなどのだい反対にあったエジプトは運河を閉鎖。 石油の供給ルートを閉ざされたイギリスでは、ガソリンが配給制になるほどの貴重なものとなってしまいました。 会長はアレックにプロジェクトのやり直しを命じます。 さすがに今度は条件がつきました。 でも、たった一つ。 |
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アレックは会長の求めている車の姿を把握で来ていました。 「ボディは最小に、室内は最大に」大人4人が苦もなく乗れ、それでいながら限りなく小さく、したがって重量も少なく、燃費のいい車。 この困難な要求にこたえるためにアレック始め「9人組」は新しいアイデアを次々と試作車に盛り込んでいきました。 |
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「エンジンと一緒に、駆動させる車輪も前に持ってくれば、操縦の安定性もいいはずだ」 「ショックを吸収するサスペンシションは、四輪それぞれ独立して持たせよう」 |
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・・・その後永く人々に認められ、愛され、多くの小型車が手本とする形。 そのすべてがこのとき形作られていきました。 オイルショックからわずか10ヶ月後、1957年6月に試作車は完成し、翌年7月会長に差し出されます。 この間、会長はアレック達に一言も注文や催促を出しませんでした。 そして出来あがった試作車になんと自ら乗りこんで試乗することになったのです。 工場の敷地をぐるりと一回りすること5分。試作車を降りた会長はこう言いました。 |
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1年以内に生産したいとまで言い出し、事実その翌年の8月、このすばらしい小型車は「オースチン・セブン」、「モーリス・ミニ・マイナー」としてBMCの二大ブランドから世に送り出されます。今からちょうど41年前のことです。 会長が乗った試作車は、実はなんと1957年6月に完成していた第一号車。 オレンジ色に塗られていたことからつけられたコードネーム、それが「みかん箱」。 |
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なぜクラブの名前を語るのにミニの歴史をひもといてきたかと言うと、ごらんの通りこの試作車の持つ意味が非常に大きなものだということを知って欲しかったからです。 まず、誕生の背景。 偉大なエンジニアと、それを信じきって後押しした偉大な経営者との出会い。 そして、出来あがったものの設計の優秀さ。 次いでその後の歩み。 「みかん箱」を出発点とするミニ・シリーズの約40年にわたる歩み、その中には当然ぼくらとの出会いも含まれるでしょう。 そして、この40年の間にミニに関わった人々。 アレック、ロード卿をはじめとして、ジョン・クーパー氏やモンテカルロラリーのドライバーやスタッフ等「ミニ・クーパー伝説」に関わった人々から、ふるさとを遠く離れたこの極東の島国で出会った僕達一介のミニ好きまで。 言ってみれば、これら全てのものが、たった一台のプロトタイプによって結び付けられているのです。 ミニシリーズにはイロイロな形があり、またミニ好きそれぞれによっても好む形、目指す形は違います。 でも、もとをたどれば40年前に作られたたった一台の試作車に行き着くことは皆同じ。 40年たっても色あせない「何か」を放ち続け、行く先々で人の心をひきつけ、そのうちの何割かに「これぞ私の望んでいた車だ・・・!」と思わせてきたその出発点が、「みかん箱」。 始まったばかりのぼくらのクラブ、まだ台数も20台に満たない数ですが、それでもお互い、他人のミニを珍しくながめてしまいます。 「みかん箱」は、そんなイロイロなスタイル、イロイロなミニライフ、すべてを包み込みぼくらのミニライフを、より豊かにしてくれるキーワードなのです。 |
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最後にアレックのひとこと。 |
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私の設計した車は、私の死んだ後も必ず流行っているだろう。」 |
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